「源平の戦」縁の地(須磨浦公園編)

山陽電鉄で「須磨寺」駅から西に二駅。

二駅と言っても・・・隣の「須磨」駅まで400mほど、「須磨」駅から「須磨浦公園」駅間も2kmもないですね。
それも、線路が少し曲がりくねっているので直線にすると2kmほど・・・

「須磨浦公園」駅周辺にも「源平の戦」の史跡が残っています。

「須磨浦公園駅」の西に100mほど行った国道沿いに「敦盛塚」があります。

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大きな五輪塔の石塔で、高さ3.5mもあって、この塚は、平敦盛の胴体が納められた供養塔であるとされてきました。しかし、北条貞時が平家一門を供養するために建立したと言う説もあるようです。

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「須磨浦公園」駅の直ぐ東には、「源平合戦800年記念碑」が建てられています。

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800年ってことは、今から30年前に建立されたってことですね。

「須磨浦公園」のほぼ東の端に建てられているのが、「戦の濱碑」

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「須磨浦公園」駅と「須磨」駅の丁度中間辺りですかね?

ここの北には・・・直線では、すぐそこのようですが・・・・

山陽電鉄の線路をくぐると目の前には、信じられないような坂が・・・

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一瞬、心が折れそうになりましたが、折角、ここまで歩いてきたので、頑張って登ろうと決心してチャレンジ。

坂の途中で一服。

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目の前には、須磨の海岸が見えます。

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東を見るとJR「須磨」駅と須磨の海水浴場がすぐそこに見えます。

坂を上り切ると・・・・住宅街になっていて、100mほど歩いたところに朱の門が・・・

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「安徳宮」

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壇ノ浦の戦で平家とともに幼い命を終えた幼帝である「安徳天皇」の冥福を祈るために建立されたのが、ここ「安徳宮」のようです。

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写真の手間に左右に映っている灯篭は、明治時代、アメリカの大財閥モルガン家の御曹司と国際結婚をした '''モンガルお雪''' が、この近くに住んでおり、信心深いお雪さんが安徳帝を偲んで建立されたようです。

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「安徳宮」のすぐ隣には、海の下の竜宮の主である龍神様(真理弁財天)がお祀りされています。

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そして、その西には、「皇女和宮様之像」が建立されています。

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何故、この像がここにあるのか??

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とても疑問に思いましたが、案内板を見て納得。

『この像は、ここより山上、300mの山の中にある、「寄手塚・身方塚」の側に人知れず寂しくあられたのを、平成12年(2000年)にここにお移しした。
なぜこの像が山中にあったのかは不明である。
和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で6才にして有栖川熾仁親王(別荘が後の舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。
しかし、幕末に朝廷と幕府との関係を改善し国論を統一せしめるため、幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との婚約を破棄し、17才で徳川幕府の14代将軍家茂に嫁がれた。
  
惜しまじな 国と民との為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも

その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようとしたが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。
昭和3年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持をいつまでも願い昭和9年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、市二(須磨高校)の三学校に和宮像を寄付した。
この像は戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。
他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎えすることができたのは非常に喜がしい限りであります。』
案内板より





来た坂を下りていたら

三人ほど、買い物をした荷物を手にしたご婦人とすれ違いましたが・・・
ほんと、この坂が生活道路なんですよねぇ。
ちょっと信じられないですね。

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坂を下りて、国道二号線沿いを100mほど歩いたところに南北に流れる細い川・・・

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これが「一ノ谷」になります。

ここを義経軍が降りてきたのかはわかりませんが、この辺りは、目の前に海、すぐ後ろに山・・・

こんな狭いところに陣を張っていた平家は・・・東西をふさがれて、後ろから奇襲されたらひとたまりもなかったんでしょうね。


「源平の戦」縁の地(須磨寺編)





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