テーマ:史跡

歴史ロードを散策(鹿児島県鹿屋市)

鹿児島水族館を見学した後、西鹿児島駅前までバスで戻ってきたら 新幹線の時間まで少し時間があったので、駅の近くにある「歴史ロード」を散策することに。 駅前から200mほど天文館に向かって歩くと 橋のたもとに大久保利通公の銅像が立っています。 西郷隆盛公の銅像が軍服なのに比べると、対照的ですね。 県道を…
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「奥の細道」むすびの地(岐阜県大垣市)

大垣城から南に600mほど離れた場所に 松尾芭蕉が巡った「奥の細道」のむすびの地があります。 1689年に江戸から東北、北陸をめぐる2400kmに及ぶ旅の果てに、その旅はこの地で終わります。 水門川沿に「奥の細道」むすびの地の碑があります。 その隣には、松尾芭蕉像が建てられています。 …
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常盤御前の墓(岐阜県関ケ原町)

関ヶ原の戦い、そして、壬申の乱と 歴史上、重要な戦があった関ヶ原の地ですが もう一つ、歴史に名を残す場所があったので、足を伸ばして立ち寄ってみました。 大谷吉継の陣から西に1kmほど行った場所に小さな公園があって その一画に石が積み上げられていて ここは、源義朝の妾として、義経を産んだことで…
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壬申の乱と不破の関(岐阜県関ケ原町)

関ヶ原の地は 400年前の天下分け目の合戦の地であることは有名ですが 遡ること、それから900年近く前に、古代の最大の内戦と言われた壬申の乱の自由ような戦いもこの地であったことは有名ですね。 壬申の乱は、乙巳の変で蘇我入鹿を打ち取った天智天皇の後継者争いとして 息子の大友皇子(弘文天皇)と弟の大海人皇子との間で起…
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関ヶ原の古戦場を巡って-その7(決戦の地)

東西の武将の所縁の地を回った最後は やっぱり、ここ「決戦の地」ですね。 石田三成が陣を張った笹尾山の麓の田んぼの中にポツンとその場所があります。 午前中は、西軍が有利に進めていたが、正午前に小早川秀秋の裏切りによって 形勢は逆転し、一気に西軍は壊滅状態となり 他方、家康は、ここぞと勢いに…
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関ヶ原の古戦場を巡って-その6(東軍編-下-)

東軍の一番北 ちょうど、石田三成が陣を張った笹尾山の向かいに位置する場所に陣を置いたのは、軍師官兵衛でおなじみの黒田如水(官兵衛)の長男の黒田長政です。 岡山と呼ばれ目小高い丘の中腹にその場所はあります。 岡山烽火場と名付けられた場所には、石碑が立っています。 山の中腹、西側の斜面に少し広…
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関ヶ原の古戦場を巡って-その5(東軍編-上-)

東軍の武将のトップバッターは もともとは、秀吉の子飼いの武将として、賤ヶ岳の戦いの七本槍の一人に数えられた猛将の福島正則の陣です。 東軍も西軍に遅れること約1時間、 朝の6時にほぼ陣営を整えたようです。 東軍の先陣を目指していた福島正則は、東軍の一番南に位置する宇喜多隊の目の前に陣を置いたようです。 …
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関ヶ原の古戦場を巡って-その4(西軍編-下-)

悲劇の武将、大谷吉継の陣は、宇喜多軍の南 裏切った小早川秀秋が陣を張る松尾山との間にあります。 大谷吉継は、もともとは、東軍に属するつもりで、家康の会津討伐に参加しようとしていたところ、国許の敦賀から関東に向かう途中、石田三成の居城である佐和山城に立ち寄った際、石田三成から家康討伐のことを聞き 最初は、反対…
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関ヶ原の古戦場を巡って-その3(西軍編-中-)

笹尾山を後に南に下ると 開戦の地の北側の小さな神社が島津義弘が陣を置いた場所です。 島津義弘は歴戦の雄で、戦慣れしていたこともあり、野戦に慣れている徳川家康と真っ向勝負をすると不利になると考え、大垣城では、東軍に対して、夜襲を行うよう強く主張したようです。 しかし、指揮官である石田三成に拒否され、嫌々、関ヶ原の…
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関ヶ原の古戦場を巡って-その2(西軍編-上-)

開戦の碑から西軍の武将の陣を巡ってみたいと思います。 やっぱり、西軍を指揮した石田三成の陣が最初ですね。 関ヶ原の北西の角に当たる笹尾山の中腹に陣を敷いた場所になります。 石田三成の陣があったことを示す碑が立っています。 ここからは、関ヶ原一帯を望むことができる最適の場所だったようです。 …
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関ヶ原の古戦場を巡って-その1(開戦の地)

司馬遼太郎さんの「関ヶ原」を読んだのは もう、40年近く前?? それ以来、いつかは訪れてみたいと思い続けた「関ヶ原の戦い」の場所に ようやく足を運ぶことができました。 炎天下の中、駅前でレンタサイクルを借りて、急ぎ足で、2時間半ほどかけて、重要な拠点を巡ってきました。 実際に訪れた順と言うより、時間軸や西軍、東軍と言っ…
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後白河天皇陵(京都市東山区)

法住寺陵(ほうじょうじのみささぎ) 第77代の後白河天皇は、天皇と言うより法王と言う名称のほうが馴染み深いですね。 平安時代後期に即位し、退位後も34年間にもわたり院政を敷き その間、保元・平治の乱を経て、平清盛の全盛期、そして、源平合戦の後、鎌倉幕府の成立まで関わった歴史的にも忘れてはならない天皇ですね。 …
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崇徳天皇皇后聖子陵(京都市東山区)

月輪南陵(つきのわのみなみのみささぎ) 仲恭天皇陵の参道の途中に第75代の崇徳天皇の皇后であった藤原聖子が葬られています。 保元の乱に敗れ讃岐に流され、その後、不慮の死を遂げ、怨霊となったと言われている崇徳天皇・・・ ご自身は、流刑先の讃岐(現在の香川県丸亀市)に御陵があります。 その崇徳天皇の皇后である藤原…
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仲恭天皇陵(京都市東山区)

九条陵(くじょうのみささぎ) 第85代の仲恭天皇は、父親の順徳天皇、祖父の後鳥羽上皇が鎌倉幕府の倒幕を目指して起こした承久の乱で敗れたことで4歳で即位して間もないのに連座され廃位に追い込まれたようです。 実際の在位期間は、たった78日で即位を内外に示す大嘗祭も行う時間もなかったようです。 その御陵は、泉涌寺ではなく…
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守脩親王墓・淑子内親王墓・朝彦親王墓(京都市東山区)

泉涌寺を後に 仲恭天皇陵を目指そうと・・・ 元来た泉涌寺道を戻って赤十字病院を通り 東福寺の西を下って・・・ と言うのが正式ルートだと思いつつ 地図で見ると、場所的には直線で600mほどと思われるのに、そのルートだと1.5kmくらい歩かないといけない?? と思い、地図には見えなかったのですが、泉涌寺の駐車場を…
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光格天皇陵(京都市東山区)

後月輪御陵(のちのつきのわのみささぎ) 第119代の光格天皇は、江戸時代の後期に閑院宮家から即位した天皇です。 東山天皇のひ孫にあたり、その後、仁孝天皇、孝明天皇と続き、現在の皇室の直属の祖となっておられる天皇です。 その光格天皇の御陵は、息子の仁孝天皇と後月輪陵に合葬されています。 この後月輪陵は、別の…
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四条天皇陵(京都市東山区)

月輪陵(つきのわのみささぎ) 第87代、四条天皇は後堀河天皇の後を受けてわずか2歳で即位しています。 10年後の12歳で崩御し、その御陵は、泉涌寺の舎利殿の右奥にあり、仏式のお墓の形式のような御陵になっています。 ここは、四条天皇が葬られた鎌倉時代から400年後、江戸時代の第108代の御水尾天皇から第118代の後桃…
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孝明天皇陵(京都市東山区)

後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ) 江戸時代末期、ペリー来航の時に在位していた第121の孝明天皇の御陵は、泉涌寺の境内、後堀河天皇陵から、参道の坂を奥に登りきった場所にあります。 江戸時代に泉涌寺の御陵に埋葬された多くの天皇が仏式のお墓の形態をしているのに、孝明天皇の御陵は、古墳のような形態をしています…
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後堀河天皇陵(京都市東山区)

観音寺陵(かんおんじのみささぎ) 第86代の後堀河天皇の御陵は、泉涌寺の境内の奥にあります。 鎌倉時代の承久の乱の後、先帝の仲恭天皇が廃された後を受け、鎌倉幕府の意によって即位した天皇です。 10歳で即位し、21歳で退位すると言う若い天皇だったようですね。 生前に泉涌寺を朝廷の祈願所として定め、死後は…
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後深草天皇陵(京都市伏見区)

深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ) 先帝の後嵯峨天皇を継いで皇位を継いだのが、兄である第89代後深草天皇でしたが 父、後嵯峨上皇の言いなりで政治を行っていた中、父が弟を可愛がり出して、父の意により弟に譲位して上皇になり、仙洞御所に移って院政を敷くことになります。 即位した弟は、第90代の亀山天皇となります。 …
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仁明天皇陵(京都市伏見区)

深草陵(ふかくさのみささぎ) 第54代仁明天皇の御陵は、京阪電車の藤森駅から東に15分? もしくは、JR藤森駅から北に15分ほど? 名神高速と交差する住宅街の一画にあります。 参道は、住宅街の私道と区別がつかないような感じで、朱雀天皇陵と同様に町道からわかりにくいですね。 平安時代の…
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朱雀天皇陵(京都市山科区)

醍醐陵(だいごのみささぎ) 第61代朱雀天皇の御陵は、父の第5天皇陵の南・・・醍醐寺との間にあります。 元々は、醍醐天皇の皇太子は、別の人物だったようですが、若くして二人が亡くなってしまい、棚ぼたのような流れで即位した経緯があるようです。 若くして皇太子が亡くなったのは、菅原道真の怨霊の仕業と噂されたようです。 …
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醍醐天皇陵(京都市山科区)

後山科陵(のちのやましなのみささぎ) 第60代醍醐天皇の御陵は、豊臣秀吉の醍醐の花見で有名な 醍醐寺の北の閑静な住宅街の一画にあります。 醍醐寺は、その名が示す通り、醍醐天皇の庇護により祈願寺として巨大な伽藍を構える大寺院です。 醍醐天皇の時代、菅原道眞が右大臣として改革に辣腕を振るっていたよ…
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坂上田村麻呂の墓(京都市山科区)

桓武天皇の時代 征夷大将軍として、名を成した坂上田村麻呂 当時、蝦夷地で力を持っていた阿弖利爲(アテルイ)を攻め落としたことは、数年前にドラマ(大沢たかおさん主演)化されていたのを覚えています。 その後、桓武天皇の後を継いだ平城上皇が平安京を廃し平城京に戻そうとする「薬子の変」が勃発した際に 嵯峨天皇を助けて、それを…
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天智天皇陵(京都市山科区)

山科陵(やましなのみささぎ) 第38だいの天智天皇は、「乙巳の変」で中臣鎌足とともに蘇我入鹿を討ったことで有名ですね。 昔は、「乙巳の変」と言う呼び方ではなく、「大化の改新」として教わりました。 でも、今は、蘇我入鹿を討ったクーデターは「乙巳の変」と呼び、大化の改新は、その後の政治改革を指すよう、しっかりと別けて教えて…
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浄菩提院塚陵墓参考地(京都市伏見区)

城南宮の北側を 東西に走る新城南道を竹田駅の方に向かって歩いていると コンビニの駐車場の横の空き地にある一枚の立て看板が目に止まり 立ち止まって振り返って見てみると 「浄菩提院塚陵墓参考地」とのこと。 雑草が生い茂り、手入れがされているとは思えないような空き地に松の木が何本か伸びていて …
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鳥羽離宮跡鳥羽公園(京都市伏見区)

城南宮の西 国道1号線(竹田街道)の西側にある公園 ここは、鳥羽離宮の一部だった場所とともに鳥羽伏見の戦いの古戦場でもある場所です。 鳥羽離宮は平安後期に白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇が院政を敷いた場所で、院政の終焉とともに離宮は荒廃してしまったようですね。 その後、この地が歴史の表舞台にでるのは、幕末の…
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白河天皇陵(京都市伏見区)

成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 「白河」と言う名前を聞けば・・・ 御所の北東部、岡崎と呼ばれている場所を思い浮かべてしまいますが、白河天皇は、この地を愛し、寺院を建立したりと、つながりが深かったようで、白河と言う地名から名をとったのか 逆につながりが深い場所に自らの名をつけたのか・・・? 20歳で即位し…
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鳥羽天皇陵(京都市伏見区)

安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ) 第74代鳥羽天皇は、5歳で即位し、21歳で崇徳天皇に譲位するまでの在期間中は、祖父の白河上皇の院政の元だったため、あまり目立った動きはなかったようですが 白河上皇が崩御された後は、崇徳天皇を廃位させたりと、近衛天皇、後白河天皇時代は、自らが法皇として権力を握り院政を敷いていた…
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近衛天皇陵(京都市伏見区)

安樂壽院南陵(あんらくじゅいんのみなみのみささぎ) 第76代近衛天皇は、わずか2歳5ヶ月で即位し、17歳で崩御したと言う短命の天皇だったようです。 先代の崇徳天皇は、近衛天皇の異母兄弟だったようですが、政争に敗れ、近衛天皇に譲位した後、讃岐の国に流罪となり一度も京の京に帰ることなく流刑地である讃岐で崩御された。 …
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